お問い合わせ
お問い合わせ
a:502 t:1 y:1
お近くの不動産屋さんへ、
コーラルトップ又は
コーラルマンション
とマンション名を指定して
お申し出下さい。
ホームページ バックアップ 2022.5.12
ページ一覧の 日本語
猛
猛
猛
*81 猛(たけし)1950年(昭和25年)4月21日生まれ
父 二川 清 母 やい の3男
本籍地 ひたちなか市平磯町1344
平磯小学校
平磯中学校
茨城高等学校
東洋大
伊勢屋漁業勤務
コーラルトップ勤務
1987年(昭和62年)10月17日 小池 優子 と結婚
家族
&show(): The style ref(filename,pagename) is ambiguous and become obsolete. Please try ref(pagename/filename);
妻 優子(ゆうこ)*81
長男 淳一(じゅんいち)*81
長女 久美子(くみこ)*81
二川家
二川 家
現在 このページは 作成中です。もうしばらく お待ちください。
二川 家
西暦 年号 二川家、会社に関する事項 参考事項
1717 享保2年 聴法寺創建(大網山願入寺の末寺 )
1723 イワシ漁獲法 紀州より湊村に伝わる
1725 捕鯨船 湊沖で漁
1735 平磯でサンマ、湊でいわし漁盛
まぐろはえ縄漁も行われる。
1793 清三郎 生(予想)
1796 寛政8年 二川平吉(初代平吉)生まれる(予想)
1801 二川平吉(2代目平吉)生まれる(予想)
1812 平磯村で製塩業盛る
1819 文政2年9月11日 継父 3代目平吉(父 磯崎政五郎 母 きくの3男)生*32
1822 不明 清太郎(初代)生*31 不明
1842 平磯村で製塩業盛る
平磯村活を一本釣漁が大漁
平磯海岸あらはまに水揚げ
1846 このころには漁業に従事していたと思われます。平磯の漁船3年で8隻に増加
湊村の商人繁栄(回船、海産物問屋)
1848 このころの住所は 茨城県那珂郡平磯村290(現在と同じ平磯町1344)
前浜でさめ、まぐろ流し網漁法を導入
平磯村の8割は貧民
1848 嘉永元年 11 月12日
1854 嘉永 7 年 7 月28日 二川平吉(初代平吉)没 漁業に従事
1859 安政 6 年 9 月29日 清三郎 没
1863 万延 4 年 5 月22日 平吉(2代目)没
1885 明治18年 漁業協同組合を設立
1887 明治20年 1 月13日 平吉(3代目)没
1893 明治26年 8 月18日 はつ 没
1907 明治30年ころ 遭難多し18
1909 明治42年 9 月29日 清太郎(初代清太郎)没
1910 明治43年12月13日 茨城県沿海水産組合平磯支部支部長 磯前勘三郎より
故 二川清太郎 功労賞として表彰
1910 明治43年11月26日 喜代次 没
1913 大正 2 年 6 月24日 ふさ 没
1917 大正 6 年 8 月 6 日 よしい 没
1931 昭和 6 年11月12日 てる 没
1933 昭和 8 年 8 月24日 清太郎(2代目清太郎を襲名)没
1948 昭和23年 やい 入籍
1949 昭和24年 4 月12日 勝 没
1949 昭和24年 4 月12日 二 没
1950 昭和25年 4 月21日 猛 生
1951 昭和26年 月 日 和夫 生
1953 昭和28年12月16日 敏雄 生
1956 昭和31年 4 月21日 秀男 生
1962 昭和37年12月22日 つる 没
1973 昭和48年 2 月12日 亀太郎(3代目清太郎を襲名)没
昭和48年 3 月 1日 二川 猛 伊勢屋漁業会社入社
1977 昭和52年 4 月15日 ちよ 没
1984 昭和59年 3 月30日 コーラルマンション完成
1987 昭和62年3 月10日 コーラルトップ 完 成
1987 昭和62年10月17日 優子 入籍
1988 昭和63年 7 月 1 日 淳一 生
1991 平成 3 年12月30日 久美子 生
1997 平成 9 年 5 月21日 清 没
2018 平成30年 1 月 5 日 やい 没
&show(): The style ref(filename,pagename) is ambiguous and become obsolete. Please try ref(pagename/filename);
1974年3代目清太郎の1年忌の時に,平磯の自宅に集まった 父方のいとこ達です。
左後列より二川和夫(以下二川は省略)秀男、敏雄、郁夫、哲、佐藤恭子、坂口光子 井上てる子、秋葉幸子、
中段左より志賀健、政勝、猛、谷口悦子、山本智子
手前左より義明、郡司政宏、清水俊一 その前の子は、てる子さんの長男 一弘、志賀治、相山美紀
&show(): The style ref(filename,pagename) is ambiguous and become obsolete. Please try ref(pagename/filename);
家系図
家系図
家系図
立て
&lastmod(ページ名);
那珂湊市
#style2(L){{解散
ここは、左側の情報
}}解散
#style2(R){{投票日
ここは、右側の情報
}}投票日
淳一
1980-2050
二川 猛
優子 久美子
淳一
1980-2050
二川 猛
優子 久美子
昭和35年2月の決算報告書
昭和35年2月の決算報告書/複製
昭和35年2月(1960年)の決算報告書
昭和35年2月の決算報告書
第一伊勢丸、第二伊勢丸2隻所有時の決算書です。
売り上げ 7868万(2隻合計 以下同じ)
貯蔵品 97万(かつを節か?)
雑収入 49万
受け取り配当金 15万
船用人件費 2633万(売上に対する人件費は33%)
沿革
a:502 t:1 y:1
前書き
1950年頃の平磯町役場 当時の平磯町の人口は10604人(2064世帯)です。
伊勢屋(屋号)の創業は おおよそ1826年(初代平吉が18才の時) 二川平吉は 平吉として3代に渡り、平磯で漁業に従事していました。
前身会社は平吉個人の時代、そして伊勢屋(屋号)又は伊勢屋清太郎として、続き、おかげさまで2026年で創業200年になります。
伊勢屋は当初二川清太郎個人として
茨城県那珂湊市平磯町1344(現、ひたちなか市)で漁船を所有し、清太郎という屋号で近海漁業に従事し、主にかつを、さば、マグロ、サンマ、サメなどを漁獲する漁船を所有していました。
獲った魚は平磯海岸に水揚、漁船は平磯あらはま海岸(現 クジラの大ちゃんの置いてある付近)に引き揚げ、そこから出漁していました。平磯は県内では有数の海水浴場としても知られており、漁業と同じ様に海水浴場も栄えていました。当時の私社の漁業の様子の写真は残存しませんが、幸い当時海水浴客にお土産として売られていた絵葉書があり、当時1900年頃の漁業の様子を偲んでいただければ幸いです。以下の沿革は現存する資料を元に作成しました。猛(2022.4.10 たけし)
沿 革
現在 この沿革は 作成中です。
明治18年(1885年)の頃には、二川清太郎は平磯漁業協同組合(茨城県ひたちなか市平磯町 旧茨城県那珂湊市)の設立に励んでいました。
現存する最古の賞状です。
上の写真は、平磯漁業協同組合創立以来、率先指導したとして 故 二川清太郎は、明治43年(1910年)12月13日 茨城県沿海水産組合平磯支部支部長磯前勘三郎より功労賞として表彰されました。
1885年当時、二川亀太郎も平磯の荒浜(現在の平磯海水浴場)に水揚し、荒浜海岸に引き揚げていたこのような木造漁船を所有していましたが、残念ながら写真が見当たりません。(祖父 二川亀太郎より)
幸い当時平磯は海水浴で栄えていて、客にお土産として売られていた平磯町の絵葉書があり、その資料を下記に記載しました。
デビ婦人の父(根本平吉)も1910年頃、ひたちなか市平磯町駅南で船大工として働いていました。
二川亀太郎所有の漁船も同じような規模の漁船だったと予想できます。
上の写真は、1920年頃発売された平磯海岸(当時は平磯海岸が、港として使用していました)から
かつを漁に出漁する漁船(二川家の所有する伊勢丸かどうかは不明)の写真で、当時の船の大きさや出漁する船員さんの作業の様子が伺えます。
1940年ごろからの所有漁船の一覧の写真をまとめてみました。
(これ以前の船の写真は残念ながら当社では見当たりません。
ご了承下さい。)
所 有 漁 船 一 覧
1940年当時の焼玉エンジン搭載の木造かつを・まぐろ漁船、私社の所有する那珂川に係留中の漁船と思われます。左の写真中央と右の写真手前は二川清18才ころの写真 この写真が現存する最古の私社所有漁船の写真です。
当時 二川 清太郎(亀太郎)は、木造漁船2隻所有してましたが 太平洋戦争中1隻を海軍に徴用船として没収され、鹿島灘沖(50-100キロメートル)で米軍の航空機と潜水艦の見張り役としての定点監視任務を命じられました。また、二川清は満州へ出兵となり、、運よく終戦後まもなく無事帰還できました(徴兵期間は5年)。漁船2隻は幸い撃沈は免れましたが、1隻は焼き玉エンジンの調子が悪く、漁船として使用できず、戦後は徴用船として接収された船舶の補償は一切なく、残りの木造漁船1隻からの漁業再開となりました。
伊勢丸 木造漁船(上の写真)
船主 二川 清太郎(亀太郎) 船籍港 茨城県那珂湊市
昭和10年(1935年)ころ
造船所 ひたちなか市栄町2丁目3番33号(旧那珂湊市)田中造船所
昭和30年(1955年)ごろ、那珂湊港の那珂川に係留中のかつを・まぐろ・さんま漁を行っていた当時の第1伊勢丸の写真です。当時は那珂湊地区には40隻位あり、第1伊勢丸の漁船乗組員は45名前後、漁獲屯数は40-50トン位。当時は冷凍設備もなく、砕氷を魚層に積んでの出漁でしたので、船体も重くなり船足も遅く、沖での漁には大変な苦労がありました。特にさんま漁は一晩中夜中の作業でしたので、時化と寒さと危険が伴う大変な仕事で、乗組員全員が寒さと戦いながらの辛い漁でした。
第 1 伊勢丸 木造漁船(上の写真)
84屯(屯は排水トン) (那珂湊図書館;昭和の修築史より)
船主 二川 清太郎(亀太郎) 船籍港 茨城県那珂湊市
昭和15年(1940年)(推定)---昭和32年(1957年)
造船所 ひたちなか市栄町2丁目3番33号(旧那珂湊市)田中造船所
昭和30年1月から昭和32年 月まで
漁労長 磯前 菊太郎(旧 那珂湊市磯崎町)
第2伊勢丸 木造漁船(上の写真)
船主 二川 清太郎(亀太郎) 船籍港 茨城県那珂湊市
昭和21年(1946年)---昭和29年(1954年)
造船所 ひたちなか市栄町2丁目3番33号(旧那珂湊市)田中造船所
昭和28年1月から昭和29年まで
漁労長 大内 三次郎(旧 那珂湊市平磯町)
さんま漁では昭和26年から3年連続最高漁獲で表彰されました。
第2伊勢丸 木造漁船(上の写真)
115屯型(那珂湊図書館:昭和の修築史より)(屯は排水トン)
船主 二川 清太郎(亀太郎) 船籍港 茨城県那珂湊市
昭和30年(1955年)7月吉日 進水
参考 キロ当たり魚価単価 バチマグロ 212円 トンボマグロ
(ビン長マグロ)143円 かつを41円 さんま9月中旬41円-9月末22円-10月初旬10円
8月末の、さんま漁の解禁日から、11月末までの3ヶ月の間に 2000万円を超える水揚がありました。魚価がかなり安いにも関わらず、1000屯以上のさんまを漁獲しないと2000万円の水揚げは達成されず、サンマ漁は寒い夜に一睡もせず沖合の海上で波と揺れに命を懸けて寒さと戦いながらの作業は過酷であり、大変なご苦労があったと伝え聞いております。
昭和30年(1955年)---昭和35年(1960年)
造船所 ひたちなか市栄町2丁目3番33号(旧那珂湊市)田中造船所
昭和29年8月末、那珂湊港(水揚げ場は、ひたちなか市栄町1-7 稲葉屋菓子店の60M北西)の那珂川(今の海上保安庁付近)から撮影したサンマ漁の出初め式の様子です。このように当時は40-50隻位が次々と出漁しました。第2伊勢丸115屯の漁船乗組員は50名 一晩で多い日には丸々とした太い大型のサンマ40屯前後漁獲しました。
昭和30年1月から昭和32年12月まで
漁労長 大内 三次郎(旧 那珂湊市平磯町)
昭和33年1月から昭和35年12月まで
漁労長 磯前 菊太郎(旧 那珂湊市磯崎町)
昭和29年9月11日、那珂湊港の那珂川からサンマ漁の出初め式の第1伊勢丸の見送りの様子です。当時は40-50隻位が一斉に次々と出漁しました。第2伊勢丸の漁船乗組員は50名
サンマを多い日には一晩で40-50トン前後漁獲しました。
第1伊勢丸 木造漁船
151屯型
船主 二川 清太郎(亀太郎) 船籍港 茨城県那珂湊市
昭和33年(1958年)から、推定昭和40年(1965年)
造船所 ひたちなか市栄町2丁目3番33号(旧那珂湊市)田中造船所
昭和33年1月から昭和39年1月まで
漁労長 大内 三次郎(旧 那珂湊市平磯町)
昭和39年3月から 昭和41年2月まで、鰹鮪、サンマの漁業権付で、三重県志摩郡浜島 松尾忠三郎へ年間800万円で貸付する。
参考までに昭和35年2月の決算報告書を見る?
第八伊勢丸 289屯型 鋼製鮪延縄漁船
船主 二川 清太郎(亀太郎) 船籍港 茨城県那珂湊市 進水 昭和35年(1960年) 月 日
全長43.90M 長さ(垂線間)39M00 型幅7M50 型深3M60
満載吃水3M15 総屯水289T 主機械ディゼル650PS
魚艙容量345㎥ 燃料容量125㎥ 清水容量16㎥ 乗組員28P 航海速力10.5KN
建造所 株式会社臼杵鉄工所(大分県臼杵市) 建造費(推定)5500万
上の左の写真は臼杵造船所での進水式の様子です。右の写真は昭和36年3月9日、燃料、餌、食糧、水をつみこんで、三浦三崎港の花暮岸壁から、西経漁場に向けて初出漁する直前の様子です。
この船は型幅7M50と1M狭く、荒天時でも、速力が出る船だったそうです。茨城籍では那珂湊の飯島漁業所・飯島丸に次いで三崎へのマグロ専業船進出は2社目だそうです。その後、三崎港を基地にする茨城籍の船舶も増えて昭和40年ころには15-6隻位に増えました。
昭和36年3月から昭和44年1月まで
漁労長 島山 鶴雄(徳島県牟岐町出身 神奈川県三浦市)
初航海は、35回操業でビン長マグロ、メバチマグロ、黄肌マグロ主体で満船220トン(1日平均6.2トン)水揚は航海日数95日で2500万の大漁でした。
初縄では初日に一日で15トンを漁獲。漁場は西経漁場 W125 N05-S10付近
昭和44年3月からは 昭和46年2月まで、東京都の大洋漁業(マルハ)へ2年間貸付しました。(インド洋へ出漁していました)
第一伊勢丸 179屯型 鋼製 鰹鮪さんま兼業漁船
船主 二川 清太郎(亀太郎) 船籍港 茨城県那珂湊市 進水 昭和40年(1965年)12月6日
全長38M97 型幅6M35 型深3M10 乗組員48人最高速力11.93ノット航海速力10.30ノット 主機関 赤坂鉄工所710馬力 建造造船所 清水市 三保造船所 建造番号SNO561
建造費(推定)7000万
この船は私社が初めて導入した鋼製のかつをまぐろ漁船で、速力が出て安定度の高い、申し分のない漁船でした。
昭和41年1月から昭和43年12月まで (年間水揚金約4500万 鰹 ビン長マグロで水揚金2524万 秋刀魚漁で約2000万)
漁労長 根本 徳重(旧 那珂湊市平磯町)
昭和44年1月から昭和45年 月まで
漁労長 飛田 克己(旧 那珂湊市平磯町)
主漁場 春(鰹) パラオ マリアナ海域 夏(鰹 ビン長マグロ) 小笠原海域
秋(さんま) 釧路沖(8-9月) 三陸沖(10月)那珂湊沖(10月中旬) 銚子沖(11月)
冬 マリアナ(鰹)又は ミッドウェイ(ビン長マグロ)
第二伊勢丸 197屯型 鋼製 遠洋鰹鮪一本釣り漁船
船主 二川 清太郎(亀太郎) 船籍港 茨城県那珂湊市 進水 昭和43年(1968年) 月 日
全長 M97 型幅M35 型深M10 乗組員人最高速力.93ノット航海速力.30ノット 主機関 赤坂鉄工所馬力 建造造船所 清水市 三保造船所 建造番号SNO576
建造費(推定) 9000万
昭和43年 月から昭和45年 月まで (水揚金 鰹 ビン長マグロで3147万 さんま漁で約2000万 年間水揚金約5100万)
漁労長 昭和43年 月から昭和45年 月まで 根本 徳重(旧 那珂湊市)
主漁場 春(鰹) パラオ マリアナ海域 夏(鰹 ビン長マグロ) 小笠原海域
秋(さんま) 釧路沖(8-9月) 三陸沖(10月)那珂湊沖(10月中旬)銚子沖(11月)
冬 マリアナ海域(鰹)又は ミッドウェイ(ビン長マグロ)
昭和45年ころ那珂湊の笹島漁業所へ根本徳重率いる乗組員毎、売却になりました。
写真が見つかるまで、しばらくお待ち下さい
第18伊勢丸 314.86屯 鋼製 鮪延縄漁船
船主 二川 清太郎(亀太郎) 船籍港 茨城県那珂湊市
進水 昭和43年11月13日(1968年)---
建造造船所 三保造船所(清水市三保)建造費(推定)1億2000万円
主機関(株)赤坂鉄工所ディーゼル 1000馬力
冷凍能力マイナス48度 保管温度マイナス45度
冷凍凍結と防熱技術が向上し魚の品質が良くなり、水揚げ金が少しずつ上向いて来ました。
昭和44年月から昭和45年12月まで漁労長 島山 鶴雄
(徳島県牟岐町出身 神奈川県三浦市)
昭和46年1月から漁労長 小川 長彦
昭和48年1月から漁労長 岡村 甲(北茨城市)
(株)三保造船所へ昭和48年12月4日 1億2500万で売却となりました。
第二十一伊勢丸 314屯型 鋼製 鮪延縄漁船
船主 二川 清 船籍港 茨城県那珂湊市 進水 昭和45年(1970年)8月21日
全長50M47 型幅8M30 型深3M70 乗組員22人最高速力12.44ノット航海速力11.00ノット 主機関 新潟鉄工所1000馬力 レーダー、方向探知機光電製作所 冷凍能力マイナス52度 保管温度マイナス50度
建造造船所(株)金指造船所(清水市三保) 建造費(推定)1億8000万
昭和45年 月から昭和49年 月まで
漁労長 島山 鶴雄(徳島県牟岐町出身 神奈川県三浦市)
昭和49年 月から昭和52年 月まで
漁労長 岡村 甲(茨城県北茨城市)
昭和53年 月から昭和54年3月まで
漁労長 今津 敏治(三浦市三崎)
主漁場 主に ペルー沖 ペルー西経南(メバチマグロ 黄肌マグロ)
第二十三伊勢丸建造の為、6000万円で転売されました。
第十八伊勢丸 299屯型 鋼製 鮪延縄漁船
船主 二川 清 船籍港 茨城県那珂湊市 進水 昭和49年(1974年)2月28日
全長50M60 型幅8M50 型深3M45 乗組員20人最高速力12.28ノット航海速力11.40ノット 主機関 新潟鉄工所1000馬力 冷凍能力マイナス60度 保管温度マイナス52度 建造造船所 清水市 三保造船所 建造番号SNO969
この船は建造費用を抑える為に3社と協力し同型船4隻一括発注(18伊勢丸、8、18大浅丸、8飯島丸の4隻)し建造しました。4隻一括発注の際には、大浅漁業の片山幸男専務と飯島漁業所の社長、大塚正也氏のご協力を得ることが出来ました。尚、今振り返ると、この第十八伊勢丸は、我社にとって大変貢献した漁船だったと思います。
建造費(推定)2億2240万
昭和49年4月から昭和54年4月まで
漁労長 漁労長 島山 鶴雄(徳島県牟岐町出身 神奈川県三浦市)
昭和54年4月から昭和56年12月まで(伊勢屋漁業は昭和55年4月から第18伊勢丸1隻の所有となりました。) 漁労長 今津 敏治(三浦市)
昭和55年4月から昭和56年12月まで
主漁場 主に ペルー沖 ペルー西経南(メバチマグロ 黄肌マグロ)ハワイ北からロサンゼルス沖(メバチマグロ ビン長マグロ))ペルー領海内(メバチマグロ)
のち石川県能都の水産会社へ推定5000万円で転売されました。
(イカ釣り船として)
上の写真は三保造船所から引き渡し式を終え神奈川県三崎港へ向けて航行中の写真です。
二川 清と猛も乗船していました。
第二十三伊勢丸 314屯型 鋼製 鮪延縄漁船
船主 二川 清 船籍港 茨城県那珂湊市 進水 昭和53年(1977年)11月17日
全長51M50 型幅8M60 型深3M60 乗組員20人最高速力13.04ノット航海速力11.30ノット 主機関 赤坂鉄工所1200馬力 冷凍能力マイナス62度 保管温度マイナス52度建造造船所 清水市 三保造船所 建造番号SN1110 同型船58長功丸(気仙沼市)
建造費 3億5500万
昭和54年3月から昭和54年12月まで
漁労長 漁労長 島山 鶴雄(徳島県牟岐町出身 神奈川県三浦市)
主漁場 主に ペルー沖からイースター島の北500キロ海域(メバチマグロ 黄肌マグロ)
2航海後、三浦市白石町の半次郎丸漁業生産組合へ売却となりました。
表 彰 状
(ひたちなか市平磯町の私社所有の大谷石づくりの漁網漁具倉庫に(昭和25年1950年に完成)に保管されていた表彰状、感謝状は以下の通りです。)
故 二川清太郎 明治18年(1885年)漁業協同組合創立以来、率先指導 功労賞として表彰
明治43年(1910年)12月13日 茨城県沿海水産組合平磯支部支部長 磯前勘三郎
現存する最古の表彰状です。戦後まもなくの操業再開で燃料の重油が手に入らず、出漁準備には大変苦労したと聞きました。昭和24年ごろから秋刀魚漁の全盛期に突入、漁労長は大内三治郎(平磯町)
伊勢丸 鮫(サメ)延縄漁業 県下最高の出荷 昭和21年度 茨城県水産業会長 宮原庄助
伊勢丸 さんま棒受網漁業 最高漁獲 昭和26年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
伊勢丸 さんま棒受網漁業 最高漁獲 昭和26年度 茨城県漁業協同組合連合会
伊勢丸 さんま棒受網漁業 最高漁獲 昭和27年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第 2 伊勢丸 さんま棒受網漁業 最高漁獲 昭和28年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第 2 伊勢丸 さんま棒受網漁業 最高漁獲 昭和26年度以降3年連続最高漁獲
茨城県漁業協同組合連合会会長 宇佐美松兵衛
第 1 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 最高漁獲 昭和30年度 那珂湊市漁業協同組合連合会
第 1 伊勢丸 さんま棒受網漁業 最高漁獲 昭和30年度 茨城県漁業協同組合連合会
第 1 伊勢丸 さんま棒受網漁業 最高漁獲 昭和30年度 茨城県知事 友永洋治
第 1 伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和30年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第 1 伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和30年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職二番漁 昭和30年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職五番漁 昭和30年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職二番漁 昭和30年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職二番漁 昭和31年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 1 伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職四番漁 昭和31年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 敢闘旗 昭和31年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職三番漁 昭和31年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 優 良 昭和31年度 那珂湊市漁業協同組合連合会
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職二番漁 昭和32年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職三番漁 昭和32年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 1 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職五番漁 昭和32年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 さんま棒受網漁業 県下最高漁獲 昭和32年度 茨城県漁業協同組合連合会
第 2 伊勢丸 さんま棒受網漁業 最高漁獲 昭和32年度 茨城県知事 友永洋治
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 最高漁獲 昭和32年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 鰹鮪さんま漁業 三職一番 昭和32年度 茨城県漁業協同組合連合
第 2 伊勢丸 鰹鮪さんま漁業 最高水揚 昭和32年度 茨城県漁業協同組合連合
第 2 伊勢丸 鰹鮪さんま漁業 最高水揚 昭和32年度 茨城県知事 友末洋治
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 最高漁獲 昭和32年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職五番漁 昭和33年度 茨城県平磯漁業協同組合
伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職五番漁 昭和33年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職四番漁 昭和33年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 漁獲良好 昭和33年度 小名浜機船底曳網漁業協同組合
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和33年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和33年度 茨城県知事 木村凡夫
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和33年度 茨城県平磯漁業協同組合
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和33年度 茨城県漁業協同組合連合
第 2 伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職三番漁 昭和33年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職三番漁 昭和34年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職三番漁 昭和34年度 茨城県平磯漁業協同組合
伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職三番漁 昭和34年度 那珂湊市長 宮原庄助
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職四番漁 昭和34年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職四番漁 昭和34年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和34年度 茨城県知事 岩上二郎
伊勢丸 さんま棒受網漁業 最高漁獲 昭和34年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和34年度 茨城県平磯漁業協同組合
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和34年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職一番漁 昭和34年度 那珂湊市漁業協同組合連合会
第 2 伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職二番漁 昭和34年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職三番漁 昭和34年度 茨城県平磯漁業協同組合
参考までに昭和35年2月の決算報告書を見る?
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職五番漁 昭和35年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 遠洋鰹鮪大型船 春職一番漁 昭和35年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 鮪延縄漁業 春職最高漁獲 昭和35年度 那珂湊市漁業協同組合連合会
伊勢丸 鰹鮪延縄漁業 春職最高漁獲 昭和35年度 茨城県知事 岩上二郎
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職二番漁 昭和35年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 さんま棒受網漁業 塩釜三番漁 昭和35年度 宮城県塩釜魚市場社長 鈴木忠助
伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 県下最高漁獲 昭和36年度 茨城県漁業協同組合連合会
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職二番漁 昭和36年度 茨城県平磯漁業協同組合
伊勢丸 さんま漁業 優 秀 昭和36年度 宮城県塩釜市長 桜井辰治
伊勢丸 鰹鮪漁業 夏職二番漁 昭和36年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職二番漁 昭和36年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 鰹一本釣り 春職二番漁 昭和36年度 茨城県平磯漁業協同組合
伊勢丸 鰹一本釣漁業 夏職二番漁 昭和37年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職三番漁 昭和37年度 茨城県平磯漁業協同組合
伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職三番漁 昭和37年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 かつおまぐろ漁業 二番漁 昭和37年度 那珂湊市漁業協同組合連合会
伊勢丸 かつおまぐろ漁業 二番漁 昭和37年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 鰹一本釣り漁業 二番漁 昭和37年度 茨城県平磯漁業協同組合
この年から遠洋鮪延縄漁船第 8 伊勢丸を建造し所有船は2隻となりました。
第 8 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 優秀 昭和37年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 8 伊勢丸 遠洋まぐろ漁業 年間優秀 昭和37年度 那珂湊市長 宮原庄助
伊勢丸 かつおまぐろ漁業 五番漁 昭和37年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 2 伊勢丸 鰹鮪一本釣り漁業 五番漁 昭和39年度 那珂湊市長 那珂湊市長薄井与兵衛
第 2 伊勢丸 鰹鮪釣り漁業 四番漁 昭和39年度 那珂湊市長 薄井与兵衛
第 2 伊勢丸 鰹鮪釣り漁業 五番漁 昭和39年度 那珂湊市漁業協同組合連合会
伊勢丸 さんま漁業 三番漁 昭和40年度 茨城県平磯漁業協同組合
伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 二番漁 昭和40年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 8 伊勢丸 鮪専業漁業 最高漁獲 昭和40年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 8 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和40年度 茨城県漁業協同組合連合会
第 8 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和40年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第 8 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和40年度 茨城県農林水産部長 染野 敏
第 8 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 優秀漁獲 昭和40年度 那珂湊市長 薄井与兵衛
伊勢丸 鰹釣り漁業 三番漁 昭和40年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 8 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和41年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 1 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職五番漁 昭和41年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 1 伊勢丸 かつお一本釣漁業 夏職二番漁 昭和41年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 1 伊勢丸 かつお一本釣漁業 夏職二番漁 昭和41年度 那珂湊市長 薄井与兵衛
第 1 伊勢丸 さんま棒受網漁業 秋職五番漁 昭和41年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 1 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 優 秀 昭和41年度 小名浜漁業協同組合
第 1 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職最高成績 昭和42年度 那珂湊市漁業協同組合連合会
第 8 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和42年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第 8 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和42年度 茨城県平磯漁業協同組合
第8 伊勢丸 鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和42年度 茨城県農林水産部長 田口正信
第 1伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職一番漁 昭和42年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 1伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職一番漁 昭和42年度 那珂湊市長 薄井与兵衛
第 8 伊勢丸 鮪専業 一番漁 昭和42年度 那珂湊市長 薄井与兵衛
第 1伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職最高漁獲 昭和42年度 茨城県農林水産部長 田口正信
この年から遠洋鰹鮪一本釣り漁船第 2伊勢丸を建造し所有船は3隻となりました。
第 2伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 春職二番漁 昭和44年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 2伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職一番漁 昭和45年度 茨城県平磯漁業協同組合
第 2伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職一番漁 昭和45年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第 2伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職一番漁 昭和45年度 那珂湊市長 薄井与兵衛
第 2伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職最高漁獲 昭和45年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第 2伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 最高漁獲 昭和45年度 那珂湊市漁業協同組合連合会
第 2伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 夏職最高漁獲 昭和45年度 茨城県農林水産部長 坂口 順
昭和44年(1969年)のころは、第 1伊勢丸、第 2伊勢丸、第 18伊勢丸の3隻を所有経営していましたが、昭和45年、那珂湊港を基地とした遠洋鰹鮪一本釣り漁船の第 1伊勢丸、第 2伊勢丸は売却、かつを一本釣り漁業から撤退し、第21伊勢丸(遠洋鮪延縄漁船)を新たに建造し遠洋鮪延縄漁業へ業種転換しました。所有船は第 18伊勢丸(遠洋鮪延縄漁船)と第 21伊勢丸の2隻となりました。遠洋鮪延縄船は神奈川県三浦市三崎港を基地にして、出入港、水揚げは主に三浦三崎港です。
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和45年度 那珂湊市長 薄井与兵衛
第18伊勢丸 鮪専業船 最高漁獲 昭和45年度 茨城県農林水産部長 坂口 順
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和45年度 茨城県平磯漁業協同組合
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 優 秀 昭和46年度 神奈川県知事 津田文吾
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 優 秀 昭和46年度 三浦市長 木村 昭
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和46年度 茨城県漁業協同組合連合会
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和46年度 茨城県平磯漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 優 秀 昭和46年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和46年度 那珂湊市長 薄井 三郎
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和46年度 茨城県農林水産部長 坂口 順
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和47年度 那珂湊市長 薄井 三郎
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和47年度 茨城県平磯漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 成績優秀 昭和48年度 三浦市長 木村 昭
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 優 秀 昭和48年度 神奈川県知事 津田文吾
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 成績優秀 昭和48年度 三浦市長 木村 昭
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 優 勝 昭和48年度 三崎魚類(株)
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和48年度 茨城県農林水産部長 古谷 裕
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和48年度 茨城県平磯漁業協同組合
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和48年度 那珂湊市長 薄井 三郎
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和48年度 茨城県漁業協同組合連合会 小幡
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和48年度 茨城県農林水産部長 坂口 順
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 敢闘賞 昭和49年度 茨城県平磯漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和49年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和49年度 茨城県平磯漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和49年度 那珂湊市長 薄井 三郎
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和49年度 茨城県農林水産部長 古谷 裕
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 成績優良 昭和49年度 三浦市長 木村 昭
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和50年度 茨城県農林水産部長 古谷 裕
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和50年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和50年度 茨城県平磯漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和50年度 那珂湊市長 薄井 三郎
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和50年度 茨城県漁業協同組合連合会 三代
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 二番漁 昭和51年度 茨城県平磯漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 二番漁 昭和52年度 茨城県平磯漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 三番漁 昭和52年度 三浦市長 野上義一
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和52年度 茨城県平磯漁業協同組合
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和52年度 茨城県平磯漁業協同組合
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和53年度 三浦市長 野上義一
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和53年度 神奈川県知事 長洲一二
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 優 秀 昭和54年度 三浦市長 野上義一
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和54年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和54年度 茨城県平磯漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和54年度 茨城県漁業協同組合連合会
第23伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和55年度 茨城県平磯漁業協同組合
第23伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和55年度 茨城県鰹鮪漁業協同組合
第23伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和55年度 茨城県漁業協同組合連合会
第23伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 優 秀 昭和55年度 三浦市長 野上義一
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 一番漁 昭和56年度 茨城県平磯漁業協同組合
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和56年度 茨城県漁業協同組合連合会
第18伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 最高漁獲 昭和57年3月5日 茨城県鰹鮪漁業協同組合
船主 二川 清 漁労長 今津 敏治(三浦市三崎)
漁労長 島山 鶴雄(三浦市三崎) 漁労長 今津 敏治(三浦市三崎)
昭和57年
トロフィ受賞
平磯漁業協同組合から受賞したトロフィです。
左 第2伊勢丸 中央 第2伊勢丸 右 第18伊勢丸
昭和44年度春職二番漁 昭和45年度夏職一番漁 昭和45年度鮪延縄漁業一番漁
その他
明治31稔(1898年)灯籠入箱 初8月 日 と書かれた木箱と ビーズで編んだ灯篭 ガラスの内側には、小さいランプが入ってました。
今から約120年前です。(2018年現在)
明治30歳(1897年)酉10月 伊勢屋清太郎 これを造る と書かれた木箱
今から約121年前です。(2018年現在)右は家紋いり重箱 家紋は抱き茗荷谷(みようが)です。
屋号の 伊勢屋清太郎と彫られた、版木(はんぎ 右)とその印刷物(左)
200年以上漁業を経営していた一時期、漁業の合間に副職として、かつを節の製造をしていた時に、使用した版木です。
版木には、右側に屋号の 伊勢屋清太郎 中央上に 屋印 本極上夏涸鰹節(なつがれ)左側に 正味十貫目 背腹 (何)本入
この当時の屋号は、伊勢屋清太郎 円い木樽に十貫(約40キログラム)の かつを節を入れて、蓋にこの版木で押印し、鰹節の販売に使用していました。
屋印 ノキ はこの頃にも使っていたらしく、鰹節の製造販売は、昭和30年(1955年)ごろまで、漁業の合間に、夏のかつを漁の時期だけ、わずかに営んでいたいました。当時は冷凍設備がなく、那珂湊地区では、余ったかつをは、水産加工業者の他に、漁業者も鰹節造りをしていて夏のお盆の時期や地元の特産品として、僅かですが売っていました。平磯の自宅の浴室の手前(現在の食堂)には、かつをを茹でる大きな釜が有り、そこで加工し、茹で上がった鰹節は、裏の空地で天日に干して乾かし整形してから、穀蔵でカビ付けし、保管、天日で干し、保管を繰り返して製造していました。その鰹節の商いに使用したのがこの版木です。また、屋印はその後、昭和45年(1970年)ごろまで、魚を入れる竹製の籠(のち 黄色のプラスチック製)の側面にも使われていました。この籠は通称ボディと言って、かつをや秋刀魚をボディに入れて市場でセリに競ける時に、使用しました。当時はこの竹製のボディが、自宅の裏の倉庫に200個位、山積みになっていたのを覚えています。が、本業はやはり漁業経営でした。 猛
第1伊勢丸、第2伊勢丸の船名入りの徳利と杯。昭和30年(1955年)頃、正にさんま漁の全盛期時代の頃、進水式や船のお祝いのある毎に使用しました。徳利と杯は当時7-80個位ありましたが、現存する徳利と杯はこれだけです。
二川清太郎愛用の鞄。昭和30年(1955年)頃まで、使用していました。
第18伊勢丸(漁労長:今津敏治 三浦市)が昭和56年度最高漁獲(漁場:ペルー領海内で、良質の脂の乗ったメバチまぐろを230トン漁獲)で三浦市三崎魚市場の三崎魚類(株)(丸魚)から贈呈された陶彩画
表彰状 感謝状
故 二川清太郎 明治18年漁業協同組合創立以来、率先指導 功労賞として表彰
明治43年12月13日 茨城県沿海水産組合平磯支部支部長 磯前勘三郎
二川清太郎 本県水産振興に多大な功績 昭和24年度平和茨城建設最優秀者
昭和25年5月3日 茨城県知事 友永洋治
二川清太郎 全国協同組合役職員の模範として表彰
昭和29年3月5日 全国漁業協同組合連合会会長理事 木下辰雄
二川清太郎 茨城県社会事業共同募金 金壱千円寄付
昭和30年1月21日 内閣総理大臣官房賞勳部長 村田八千穂
二川清太郎 平磯組合専務理事の功績賞 昭和31年4月25日
第 2 伊勢丸 さんま棒受網漁業 静神社石灯籠建設 昭和32年2月2日 神社本聴統理 鷹司信輔
二川 清 那珂湊市消防団第十分団勤続十年以上勤続賞 昭和34年1月6日那珂湊市長宮原庄助
二川清太郎 最高の利用実績に貢献して表彰
昭和36年2月19日 茨城県漁業協同組合連合会会長 宇佐美松兵衛
二川清太郎 最高の利用実績に貢献して表彰
昭和38年3月26日 茨城県漁業協同組合連合会会長 宇佐美松兵衛
二川清太郎 他港水揚金の高率統計送金し金融の確率に貢献して表彰
昭和41年8月16日 茨城県信用漁業協同組合連合会会長理事 出沼浅吉
第 2 伊勢丸 遠洋鰹鮪一本釣り 3年間無事故 昭和42年5月10日
日本鰹鮪漁船保険組合 浜地 文平
第 8 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 3年間無事故 昭和42年5月10日
日本鰹鮪漁船保険組合 浜地 文平
第 18 伊勢丸 遠洋鮪延縄漁業 3年間無事故 昭和42年5月10日
日本鰹鮪漁船保険組合 増田正一
二川清太郎 船員保険運営に貢献して表彰
昭和44年10月26日 茨城県民生部保険課長 松尾二郎
二川 清 功労の模範として表彰 昭和47年12月4日
日本水難救済会茨城支部長 大内福次郎
第21伊勢丸 遠洋鮪延縄漁船 3年間無事故 昭和50年5月6日
日本鰹鮪漁船保険組合 増田正一
二川 清 系統信用事業の発展に貢献 昭和57年10月21日
茨城県信用漁業協同組合連合会会長理事 出沼浅吉
二川 清 漁業無線の発展に貢献 昭和58年6月23日
社団法人全国無線協会 関東支部連合会会長 宇田川勝次
伊勢丸の乗組員の皆さま、関係者の皆さま、有難うございました。
作成 2018年平成30年6月4日
平成20年(2008年)8月23日ひたちなか市平磯町1344番地から、本社を水戸市白梅3-10-5-207へ移転、社名を(有)伊勢屋漁業から(有)水戸ネットハウジングへ変更しました。
コーラルマンション(新耐震基準適合)
所在地 水戸市白梅4-1-18
構造 鉄筋コンクリート造4階建 (新耐震基準適合)
賃貸マンション 1DK16戸 2LDK3戸(全戸南向き)
築年月 1984年3月
建築主 有限会社 伊勢屋漁業
(現在 有限会社水戸ネットハウジング)
設計 戸頃建築設計事務所(水戸市松ヶ丘1-2-23)
施工(株)大成建設(水戸市大町3-1-15)
遠洋まぐろ漁業会社からの事業転換です。
コーラルトップ(新耐震基準適合)
所在地 水戸市白梅3-10-5
構造 鉄筋コンクリート造5階建て (新耐震基準適合)
賃貸マンション 1DK 35戸(16戸南向き19戸東向き)
築年月 1987年3月
建築主 二川 清
設計 戸頃建築設計事務所(水戸市松ヶ丘1-2-23)
施工 大久保建設(水戸市柳町2−4−17)
2012年8月23日 水戸市白梅3-11-6
土地取得(駐車場用地として)
2021年4月 自宅をひたちなか市平磯町から水戸市城南へ移転
個人の部
二川 清 1974-75ロータリークラブ会長 1992.6.30 那珂湊ロータリークラブ
二川 やい 米寿のお祝い 褒状
平成25年9月16日 ひたちなか市長 本間 源基
ゴルフ優勝カップ 二川 清 優勝記念
左 大洗ゴルフクラブ 中央 優勝 右 記載なし
Bクラシック優勝1970年 平磯常陽会S61年度
ゴルフブロンズ像 二川 清 優勝記念
左 優勝 右 優勝
水友会 S60.3.17 第8回水友会 S59.6.24
於:勝田パブリックG.C 於:勝田P.G.C
地球儀 三浦市三崎 カネダイ湊魚問屋
アルマジロ
1970年ごろ 島山 鶴雄 漁労長
ペルーリマ港の土産
絵画(上高地?)
1960年ごろ
以上 2018.7.14 二 川 猛(ふたがわ たけし)
a:502 t:1 y:1
淳一 久美子
淳一 久美子/複製
淳一 久美子
淳一 久美子
ここからは,ご自由に